エスペラントとは
エスペラントの歴史:1887年の誕生から現在まで
国家の後ろ盾がない言語が、2つの世界大戦、2つの独裁政権による禁止、英語の台頭を、どう生き延びたのか。
エスペラントは、ビャウィストク出身の眼科医ルドヴィク・レイゼル・ザメンホフが、1887年7月26日にワルシャワで、現在『Unua Libro』(『第一書』)と呼ばれるロシア語の小冊子として発表しました。20年のうちにヨーロッパとその外へ広がり、1905年に最初の世界エスペラント大会が開かれ、1908年には世界エスペラント協会が設立されました。ナチス・ドイツとソ連の迫害を生き延び、1954年と1985年にはユネスコの支持を得て、2000年以降はインターネットで新しい世代を迎えています。
エスペラントはどのように始まった?
ザメンホフが育ったビャウィストクは、ポーランド人、ロシア人、ドイツ人、ユダヤ人が暮らし、互いに不信を抱くことの多い町でした。彼は、中立でやさしい第二言語があれば、こうした敵意を減らせると考えるようになります。ワルシャワで10代を過ごすあいだに Lingwe uniwersala という言語の案に取り組み、1878年12月17日、パーティーで学校の友達に披露しました。
それから9年のあいだ、おもに文学の翻訳を通して、改良と試験を重ねました。言語の背後にあった人生は、L・L・ザメンホフで読めます。
『第一書』とは?
Unua Libro は、エスペラントで最初の教科書です。ロシアの検閲官は、当時ロシア帝国で使われていたユリウス暦の1887年7月14日に出版を許可しました。現在の暦では1887年7月26日で、この日は今、エスペラントの日として祝われています(日本では、日本エスペラント協会の設立にちなむ6月12日を「エスペラントの日」としています)。ワルシャワのハイム・ケルテルの印刷所で刷られ、費用はザメンホフの婚約者クララ・ジルベルニクの持参金でまかなわれました。
本はロシア語で書かれ、Doktoro Esperanto(「希望する人」博士)というペンネームで署名されていました。読者はまもなく言語そのものを「エスペラント」と呼ぶようになり、ザメンホフ自身が考えた名前は Lingvo Internacia(「国際語」)でした。1887年のうちにポーランド語、ドイツ語、フランス語の版が出て、1889年にはリチャード・ゲオゲガンによる英訳が出ました。本には16か条の文法がありました。16か条をご覧ください。
1905年までは、どう広まった?
最初はゆっくり、やがて急速に広まりました。1888年にザメンホフは『Dua Libro』(『第二書』)を出し、ドイツのニュルンベルクにあった世界語クラブは、それまで対抗する言語ヴォラピュクに打ち込んでいたのに、エスペラントへ乗り換えました。1889年9月1日には、同じ町で最初のエスペラント雑誌『La Esperantisto』が生まれます。
1894年にザメンホフは、抜本的な改革案を雑誌の読者の投票にかけましたが、読者は否決しました。1895年に『La Esperantisto』はレフ・トルストイの文章の翻訳を載せ、ロシアの検閲官が雑誌を禁止しました。購読者の大半がロシアにいたため雑誌は廃刊となり、1895年12月に、スウェーデンで新しい雑誌『Lingvo Internacia』が後を継ぎました。
1900年以降はフランスが成長の中心となり、科学者や教師、アシェットのような出版社が支援しました。
1905年の第1回世界大会では何が決まった?
1905年8月、フランスのブローニュ=シュル=メールに、約20か国から688人が集まり、最初の世界エスペラント大会が開かれました。通訳なしで、話し、討論し、大会全体をエスペラントで行えることがわかりました。
大会はブローニュ宣言を採択しました。これにより、ザメンホフの文法、練習問題、基本辞典を収めた『Fundamento de Esperanto』(『エスペラントの基礎』、1905年)が、誰も変更できない言語の拘束力ある土台と定められました。新しい単語や形は加えられますが、核は固定されます。この安定性が、エスペラントがライバルより長く生き残った理由のひとつです。大会は言語委員会も設け、これが1948年に、今日のエスペラント・アカデミーになりました。
公式語彙はこうして増えた
Reta Vortaro で公式と記された語根は5,328個。Fundamento(1905年)の2,756個、1909年から2023年までの10回の公式追加で加わった2,569個、アカデミーの個別の決定による3個です。
Naŭa Oficiala Aldono (9OA) 2007
208新しい語根
4,905合計
層を選ぶと、そのとき言語に加わった単語が表示されます。
語根の公式性:Reta Vortaro の表示、年:エスペラント・アカデミー、単語の順序:Tatoeba での頻度。
公式語根の一覧このグラフは、ReVo辞典で公式と印がついた語根を数えています。アカデミーは「要素」(語根、接辞、小さな語、11の語尾)を数えて、約5,373個になります。公式エスペラントをご覧ください。
第一次世界大戦までの運動は?
1907年10月、パリで国際補助語採用代表団の委員会が開かれ、改革版のエスペラントであるイドを支持しました。作者は「イド」と署名しており、1908年に、それまで有力なエスペランティストだったルイ・ド・ボーフロンだと明らかになりました。のちの歴史家は、この計画を主にルイ・クチュラの仕事と見ています。この分裂で一部の指導者が離れましたが、話者の大多数はエスペラントに残りました。
1908年4月28日には、スイスの若いジャーナリスト、ヘクトル・ホドレルと、フランスの教師テオフィル・ルソーらが、ジュネーヴで世界エスペラント協会(UEA)を設立しました。2年後の1910年に、世界大会は初めて大西洋を渡り、ワシントンD.C.で開かれました。ザメンホフは1907年から1917年にかけてノーベル平和賞に14回推薦され、最初は12人の英国国会議員による推薦でした。1914年にパリで予定されていた大会は、戦争の勃発で中止となりました。ザメンホフは、ドイツ占領下のワルシャワで1917年4月14日に亡くなりました。
国際連盟はエスペラントを検討した?
はい。1920年12月から、イランを中心とする代表団が、国際連盟にエスペラントを勧告するよう提案しました。フランスの代表ガブリエル・アノトーは、フランス語の外交言語としての地位を脅かすと見て、1920年12月の最初の提案から反対しました。連盟の事務次長を務めていた日本人の新渡戸稲造は、連盟の代表として1921年のプラハ世界大会に出席し、好意的に報告しました。
1922年の第3回総会には、連盟の報告書『国際補助語としてのエスペラント』が提出され、総会はこれを採択しましたが、学校の問題は委員会に回されました。その委員会は1923年に勧告を見送りました。フランスはそれより前の1922年6月に、公立学校からエスペラントを締め出しており、教師には広めないよう命じ、校舎をエスペラント講座に貸すことも認めませんでした。それでも1920年代は、新しい雑誌、4,963人が集まった1923年のニュルンベルク大会(1987年まで最多)、1921年設立の労働者団体SAT、1927年から始まった12月15日の「エスペラント本の日」など、運動の最盛期でした。
なぜエスペラントは迫害された?
全体主義の政権は、国際語を脅威と見ました。この迫害の標準的な歴史書は、ウルリヒ・リンスの『La danĝera lingvo』(「危険な言語」)です。
- ナチス・ドイツ。 ヒトラーは『わが闘争』で、エスペラントをユダヤ人の世界的陰謀の道具だと攻撃しました。1933年に労働者のエスペラント団体が禁止され、1936年6月には政治警察が、残っていたエスペラント団体をすべて解散させました。ザメンホフの3人の子どもは、全員がホロコーストで殺されました。アダムは1940年1月にパルミリで銃殺され、ゾフィアとリディアは1942年にトレブリンカで殺されました。
- ソ連。 エスペラントは当初、許容され、むしろ奨励もされ、1921年には公認のソ連エスペランティスト同盟が設立されました。スターリンの粛清で、その指導者エルネスト・ドレーゼンは1937年4月に逮捕され、1937年10月27日に銃殺されました。エスペラントの活動は、1937年から1956年まで事実上不可能でした。
ユネスコはエスペラントについて何を決めた?
1954年12月10日、モンテビデオでのユネスコ総会は、決議IV.1.4.422–4224を採択しました。この決議は、エスペラントが国際的な知的交流と諸国民の接近で成果を上げたことに注目し、ユネスコとUEAの協議関係を開きました。
1985年、ユネスコはソフィアでの総会で、2番目の決議を採択しました。運動の100周年が近いことを祝い、加盟国に記念行事を行うこと、言語問題とエスペラントについての教育を後押しすることを呼びかけています。1987年のワルシャワでの100周年大会には5,946人が参加し、今も最多の記録です。
1945年以降のエスペラントは?
UEAは1955年にロッテルダムへ本部を移し、いまもそこにあります。エスペラントは1956年以降の東ヨーロッパで復活し、ヨーロッパの外、つまり中国、東アジアの他の地域、ラテンアメリカ、のちにアフリカでも伸びました。1996年にプラハで開かれた第81回世界大会は、民主主義、言語の権利、言語の多様性など、運動の7つの原則を示すプラハ宣言を採択しました。現代の団体はこの時期に形づくられました。
日本には、いつどのように伝わった?
日本では明治時代の1902年(明治35年)ごろからエスペラントに関心が持たれ、運動が本格的に始まったのは1906年です。
- 1906年(明治39年)。 6月12日に日本エスペラント協会が設立されました。歴史学者の黒板勝美が中心のひとりで、この日は日本で「エスペラントの日」とされています。同じ年、作家の二葉亭四迷が、日本で最初のエスペラント学習書とされる『世界語』(彩雲閣、7月)と『世界語読本』を出版しました。後に日本の運動の父と呼ばれる小坂狷二は、18歳のときにこの本で独習を始めました。アナキストの大杉栄も、この年、東京・本郷にエスペラントの語学校を開いています。
- 1908年。 ドレスデンでの第4回世界大会に、黒板勝美と言語学者の新村出が日本から出席しました。
- 1919年。 12月に日本エスペラント学会(のちの日本エスペラント協会、JEI)が発足しました。月刊誌『エスペラント』(La Revuo Orienta)は1920年に創刊され、1926年に財団法人として認可されます。大正デモクラシーのなかで知識人や学生に広まり、1923年には会員が2,440人になったと伝えられています。
- 1923年。 宗教団体の大本が、出口王仁三郎のもとでエスペラントを取り入れました。バハーイー教の宣教師やロシアの作家エロシェンコとの交流がきっかけとされ、同年7月には綾部で講習会が開かれて、王仁三郎自身も受講生のひとりとして学びました。大本は国際的な布教の道具としてエスペラントを使い、1935年の第二次大本事件の弾圧で、活動はいったん途絶えました。
- 1931年。 左派の人々が日本プロレタリア・エスペラント同盟(ポエウ)を結成し、秋田雨雀を委員長に選びました。昭和に入ると、こうした活動は治安維持法のもとで取り締まりを受け、1937年には一部のエスペランティストが戦争に協力するエスペラント報国同盟を作るなど、戦時下の運動は大きく揺さぶられました。この年、日本人エスペランティストの長谷川テル(1912〜1947年)は日本を離れて中国に渡り、エスペラント名 Verda Majo で、日中戦争に反対する活動と放送を行いました。
- 戦後。 活動は戦争のあとに再開されました。JEIは1956年に世界エスペラント協会へ加盟し、八木日出雄が1962年から1964年までUEA会長を務めました。1965年には、アジア初の世界大会(第50回)が東京で開かれ、日本の運動は戦後の盛り上がりの頂点を迎えます。日本の運動の100周年にあたる2006年の翌年、2007年には第92回の世界大会が横浜で開かれました。
- 現在。 日本エスペラント協会は、2012年に一般財団法人になり、東京・早稲田のエスペラント会館を拠点に、月刊誌の発行、エスペラント学力検定試験(1級〜4級)、日本エスペラント大会の共催を続けています。会員数は、2020年初めの時点で約1,050人と伝えられています。2023年のUEA個人会員数では、日本は209人で世界5位でした。
日本の団体はエスペラントの団体、東京大会と横浜大会は世界エスペラント大会、人物は日本の著名人で詳しく紹介しています。
インターネットはエスペラントをどう変えた?
インターネットは、散らばった共同体に合っていました。主な出来事は次のとおりです。
- 2001年:エスペラント語版ウィキペディア(Vikipedio)が創設され、2026年10月には約39万本の記事があります。
- 2002年12月21日:無料の学習サイト lernu! が公開されました。
- 2012年2月22日:Google翻訳が64番目の言語としてエスペラントを追加しました。
- 2015年5月28日:Duolingoが英語話者向けのエスペラント講座を開始しました。2020年3月までに280万人がエスペラント講座を始めています。
- 2017年:近くのエスペラント話者をつなぐアプリ「Amikumu」が始まりました。
これらのツールは、これまでのどんなキャンペーンよりも多くの学習者を連れてきましたが、ほとんどの人は早い段階でやめてしまいます。エスペラントの話者は何人?をご覧ください。
エスペラントの今は?
2014年にポーランドは、「エスペラント文化の担い手としてのエスペラント語」を国の無形文化遺産リストに加え、2026年にはオーストリアが、エスペラント文化を自国の目録に加えました。2023年5月には、UEAの歴史的な図書館がポーランド国立図書館に移されました。
世界大会は2024年に、タンザニアのアルーシャで初めてアフリカに到達しました。第110回は2025年にブルノで、第111回は2026年8月1〜8日にオーストリアのグラーツで開かれています。UEAは、2027年の開催地としてオーストラリアのメルボルンを発表しています。
エスペラント年表
- ザメンホフがビャウィストクで誕生(12月15日)
- 最初の案 Lingwe uniwersala を友達に披露(12月17日)
- 『第一書』をワルシャワで出版(7月26日)
- 『第二書』。ニュルンベルクの世界語クラブがヴォラピュクから転向
- 最初の雑誌『La Esperantisto』をニュルンベルクで創刊
- ザメンホフの改革案が読者に否決される
- 『La Esperantisto』がトルストイの文章を載せてロシアで禁止される
- 第1回世界大会(ブローニュ=シュル=メール、参加者688人)。『エスペラントの基礎』。ブローニュ宣言
- 日本エスペラント協会が設立される(6月12日)。二葉亭四迷が『世界語』を出版(日本)
- パリでイド分裂。ザメンホフへの最初のノーベル平和賞推薦
- ジュネーヴで世界エスペラント協会が設立される(4月28日)。黒板勝美と新村出がドレスデン大会に出席(日本)
- 第一次世界大戦のためパリ大会が中止される
- ザメンホフがワルシャワで死去(4月14日)
- 日本エスペラント学会が発足する(日本)
- 国際連盟でフランスがエスペラントを阻止する
- 大本がエスペラントを取り入れる(日本)
- 12月15日が「エスペラント本の日」になる
- ナチス・ドイツがすべてのエスペラント団体を解散させる
- スターリンの粛清。ソ連のエスペラント指導者エルネスト・ドレーゼンが銃殺される
- ザメンホフの3人の子どもがホロコーストで殺される
- 言語委員会とアカデミーが合併してエスペラント・アカデミーになる
- ユネスコのモンテビデオ決議(12月10日)
- UEAの本部がロッテルダムへ移る
- 日本エスペラント学会が世界エスペラント協会に加盟する(日本)
- アジア初の世界大会が東京で開かれる(第50回、1,710人)(日本)
- 100周年に関するユネスコのソフィア決議
- ワルシャワで100周年大会。参加者5,946人(最多)
- プラハ宣言
- エスペラント語版ウィキペディアが創設される
- lernu! 公開(12月21日)
- 第92回世界大会が横浜で開かれる(1,901人)(日本)
- Google翻訳がエスペラントを追加(2月22日)
- ポーランドがエスペラントを無形文化遺産に登録
- 英語話者向けのDuolingo講座(5月28日)
- UEAの図書館がポーランド国立図書館に移される
- アフリカ初の世界大会(タンザニア、アルーシャ)
- グラーツで第111回世界大会。オーストリアがエスペラント文化を無形文化遺産に登録
よくある質問
エスペラントはいつ作られたのですか?
ザメンホフが1870年代から取り組み、1887年7月26日にワルシャワで発表しました。この日は、エスペラントの日として祝われています。
なぜザメンホフはエスペラントを作ったのですか?
異なる国の人々が対等に話せる、中立でやさしい第二言語を望んだからです。多言語の町ビャウィストクで育ち、言語の壁が共同体どうしの不信を育てるのを見ていました。
日本でエスペラントはいつ始まったのですか?
運動が本格的に始まったのは1906年(明治39年)です。同年6月12日に日本エスペラント協会が設立され、二葉亭四迷が学習書『世界語』を出版しました。現在の全国組織である日本エスペラント協会(JEI)は、1919年に「日本エスペラント学会」として発足しています。
エスペラントは禁止されたことがありますか?
あります。ナチス・ドイツは1936年にすべてのエスペラント団体を解散させ、ソ連では1937年から1956年までエスペラントの活動が抑えられ、指導的なエスペランティストが銃殺されました。ロシア帝国も1895年に、最初のエスペラント雑誌を禁止しています。
国際連盟はエスペラントを採用しましたか?
いいえ。1920年代初めの提案は広い支持を集めましたが、フランスが阻止し、1922年の連盟の報告書も学校向けの勧告に至りませんでした。
ユネスコはエスペラントを認めていますか?
ユネスコは1954年と1985年に、エスペラントに好意的な決議を採択しており、世界エスペラント協会は1954年からユネスコと協議関係にあります。エスペラントは国連の公用語ではありません。
出典
- Wikipedia、Unua Libro、History of Esperanto、Declaration of Boulogne、Vikipedio(エスペラント語版ウィキペディア)、Unua Libro、La Esperantisto
- 世界エスペラント協会、世界大会の一覧
- Vikipedio、1-a Universala Kongreso de Esperanto
- ノーベル賞、推薦アーカイブ:Lazarus Ludwig Zamenhof
- 1954年と1985年のユネスコ決議、ILEIがまとめた全文、UNESCO Records of the General Conference, 1985
- Léon Bérard、フランスの学校におけるエスペラントに関する1922年6月の通達、Les Langues modernes 1922年7月号に再録(Espéranto-Franceが掲載するスキャン)
- Wikipedia(ドイツ語)、Deutscher Esperanto-Bund(ナチス時代)、Wikipedia、Ernest Drezen
- ウルリヒ・リンス『La danĝera lingvo』(Bleicher、1988年)。英語版『Dangerous Language』(Palgrave Macmillan、2016〜17年)
- Narodowy Instytut Dziedzictwa、Język esperanto jako nośnik kultury esperanckiej(2014年)、オーストリア・ユネスコ委員会、Esperanto culture in Austria(2026年)
- Google Translate Blog、2012年2月22日
- 日本語版ウィキペディア、日本エスペラント協会、二葉亭四迷、黒板勝美、新村出、小坂狷二、大杉栄、出口王仁三郎、長谷川テル、八木日出雄、新渡戸稲造、世界エスペラント大会
- コトバンク、エスペラント、世界語。国立民族学博物館「ことば」、エスペラント語 Esperanto
- しんぶん赤旗、日本のエスペラント運動の歴史(解説)(日本プロレタリア・エスペラント同盟、エスペラント報国同盟、1923年の会員数)
- Vikipedio、Oomoto、Wikipedia、Oomoto、記念日データ、エスペラントの日(6月12日)
Esperantopediaがお役に立てたなら、サイトを応援することもできます。